| 私の旅先通信(4) 中国パソコン通信悪戦苦闘記^^; |
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| 文と写真●佐伯雅彦 | ||||
◆衝動に突き動かされるままに始まった私とパソコンとの付き合い 私のパソコン歴は、会社に入って2〜3年目くらいの時に、SHARPのMZ-731という、カセットテープでBASICをロードする、小さなカラープロッタを内蔵したマシンを買ったことが始まりでした。当時、何を思って金もないのに、突然、そんなものを買ったのかは記憶にありませんが、何かが私の衝動を突き動かしたのでしょう(笑)。 しかし、そのMZ-731を使っているうちに、富士通のFM-7というマシンが無性に欲しくなってしまいました。MZ-731はキャラクタ単位でしか絵を描くことができなかったのですが、FM-7はドット単位で描画ができ、しかも中間色も出せるという素晴らしいマシンでした。当時は(今も?^^;)、金はなくても無謀さだけはあったようで、買ったばかりのMZ-731を下取りに出してFM-7に買い換え、BASICで簡単なプログラミングの真似事をしたり、雑誌に載っているマシン語を必死で打ち込んでパックマンなどのゲームをして遊んだりしていました。(注1) その後、勤務先から語学研修で上海へ行かされることになり(注2)、1年間、文明生活から隔離された時間を過ごすことになりました。その間、日本では急激にパソコンが進化しており、日本へ戻った時にはNECのPC-98シリーズ全盛時代を迎えようとしているところでした。しかし、個人的な問題から帰国後は大ビンボー生活が数年続き、パソコンにふれる機会もありませんでした。 ところが、1993年、妻が会社から仕事用にノートパソコンを買ってもらえることになり、我が家に(妻の会社のものでしたが)IBMとCanonのコラボレーション製品(バブルジェットプリンタ内蔵のノートPC)、ThinkPad 550BJがやってきたのです。妻はパソコンが扱えるわけではなかったので、まず、私が使い方をマスターして妻に伝授しました。この時初めてWindows (3.1)に触れたのですが、そのシンプルな操作とカスタマイズできる作りにずいぶんと感動した記憶があります。(注3) ◆巡回ソフトでパソコン通信の深みにハマっていく しばらくして、雑誌などの記事からパソコン通信のことを知り、PCカード型モデムを買ってきてNifty ServeとPC-VANに申し込みました。通信ソフトはカードモデムに同梱されていたものを使い、最初はパソコン通信会社が提供するニュースを見たり占いをしたりして遊んでいました。当時はまだ友人や知り合いにもパソコン通信をしている者はおらず、会社でもほんの一部にパソコンが導入されていた程度だったので、メールを利用することもありませんでした。 確か1995年、妻にお金を借りて(^^;、当時、名機と言われたDECのHiNote Ultra 475C (ハイトラ)を購入した頃から、徐々にNiftyの会議室(注4)などをのぞいてみるようになりました。最初はパソコンやWindows 95を設定するためのTIPSを得ることが目的でしたが、この頃になるとNiftyに加入している友人もちらほら現れはじめ、メールのやり取りを始めました。当時はオフラインでメールや会議室の発言を閲覧できる巡回ソフトがあることも知らず、ひたすらオンラインで読み書きしていました。
その後、Nifty Serve専用の巡回ソフトがあることを知り、いくつかのソフトを試用していくうちに「Nifterm」という巡回ソフトにめぐり合いました。その使い勝手のよさからいろいろな会議室をのぞいて回る楽しみを覚え、最初のうちはパソコンのハードウェア関係や通信関係、中国関係などの会議室を巡回したりしていました。また、その頃には、大学時代の友人や仕事関係の知り合いなどと徐々にメールをやり取りするようになり、巡回後、すべてのログ(注5)を読むのに何時間もかかってしまうほどでした。 こうして会議室を巡回しているうちに、会議室で発言されている方々に対して(勝手に^^;)親近感や安心感を持つようになり、おっかなびっくりですが、徐々に質問や発言ができるようになりました。特に「旅先通信の部屋」の会議室では、海外に頻繁に出かけ、海外でもパソコン通信をしている、私がそれまで知らなかった世界の人たちのいろいろな話(パソコンや通信の事に限りません)が書き込まれ、とても興味深かったのです。いつしか毎日会議室をのぞかなくては1日が終わらない生活になっていきました。 ◆最初は、中国からメール代わりのFAXを送っていた 一方、会社では、中国からの繊維製品の輸入の仕事に携わっていたこともあって、頻繁に中国の地方都市へ出張していました。自前のハイトラを会社の仕事のデータ集計などに使いはじめたことから、中国への出張時にも持って出かけるようになりました。 その頃の中国出張では、早朝から移動を始め、午前中に目的地に入り、午後には再び次の場所へ移動するか、あるいはそのまま現地の宴会に突入するという生活をしていました。そのため、宿泊先のホテルに入るのはいつも夜になることが多かったのです。 今のように携帯電話もなかったですし、訪問先から国際電話もできなかった(高くつくので頼めなかった)ので、出張中に日本へ報告を入れるのは、夜中にホテルからFAXを送るくらいしか手がありませんでした(注6)。しかし、ホテルからFAXを送ろうと思うと、送信する原稿をビジネスセンターなりフロントなりに持っていかなければなりません。宴会(当時の中国の宴会はアルコール度50%もある酒を飲まされる、かなり壮絶なものでした(-_-;))が終わってから報告書を書き、それを持って部屋を出るのはかなり面倒で辛かった覚えがあります。おまけに、冬場などは部屋の外も寒いですし……。 そんなこんなで悪戦苦闘しているうちに、Nifty ServeのFAXサービスを使うことを思いつき、滞在しているホテルの部屋から国際電話で日本や香港のアクセスポイント(注7)にアクセスして日本へ報告書を送信するようになりました。もちろん、ついでに個人的なメールの送受信や会議室の巡回もしていましたけれど……(^^)v。 ◆北京空港の小姐に怪しい奴だと通報されそうになる その後、Nifty Serveの会議室をのぞいて中国からの通信方法の情報を集めていくうちに、中国にあるVAN(パケット交換網)・CHINAPAC(注8)を経由すればNifty Serveにアクセスできることがわかりました。しかし、CHINAPACの契約をするには中国に銀行口座がなくてはならないため、上司に「北京の駐在事務所がCHINAPACに加入してくれれば、中国のどこにいても(当時、地方のホテル(注9)では国際電話ができないところもあった) Nifty Serve経由で日本にFAXが送れるので、会社の経費も助かるはず(注10)」と頼み込み、北京でCHINAPACの契約をしてもらいました。(注11) これで中国出張中も気楽に通信ができる条件は揃ったのですが、しかし、いつも必ずモジュラージャックのある部屋(注12)に宿泊できるとは限りません。この頃にはパソコン通信をすることは日課になっており、パソコンがあるのに「線がつながらないという単純な理由」だけで通信ができない状況が受け入れられるわけがなく^^;、Nifty Serveの「旅先通信の部屋」などから得た情報をもとに、徐々にワニグチクリップ付きコード(注13)や4芯内外反転アダプー(注14)などを自作・常備するようになっていました。ホテルにチェックインしたら、まず、電話線の元を確認し、ベッドが邪魔ならベッドを移動させ、壁にパネルがあればドライバーで外して配線を確認し、何が何でも通信するほどになっていきました。
余談ですが、北京空港で搭乗予定の国内線の飛行機が大幅に遅れてしまい、長時間待たされたことがありました。このままではまずいと、日本の上司にNifty Serveのメールを使って連絡を入れておこうと思い立ち、公用電話(注15)のそばに座っている小姐に申し込んでみました。最初、小姐は何が行われるのかわかっていないようでしたが、とにかく北京市内の電話だと言って使わせてもらうことにしました。通信を始めるべく公衆電話に音響カプラーを装着しはじめたところ、小姐にはそれが何か危険なことをしているかのように見えたのでしょうか、急に慌てて駄目だと言い出しました。「電話が壊れるようなことはないから大丈夫だ」と説明しながら通信を強行したのですが、すぐにやめないと公安を呼ぶと言われたことがありました。 こうして、出張であろうが個人的な旅行であろうが、その旅で見たもの、食べたもの、感じたものを友人にメールしたり会議室で報告したりしていました。また、会議室で他の方が発信されたものを読んで、旅の経験を共有する楽しさを満喫していったのです。 注1:当時、まだファミコンは発売されていなかったように記憶しています。 注2:1986年のことです。当時、上海には外資系のホテルも日本料理店もまだなく、感覚的には日本より20〜30年くらい遅れている感じでした。 注3:ちなみに、仕事で使っていたのは主にワープロと表計算ソフト(Lotus1-2-3)でした。 注4:Nifty Serveは、さまざまな話題を語り合うための「会議室」に分かれていました。活発な会議室では一晩に数百発言も投稿され、その発言を読むだけでも大変でした。 注5:巡回ソフトを使うことで、メールや会議室の発言をログファイル(ログ)に残すことができるようになり、電話回線を切った状態(オフライン)で通信ログを読むことができるようになりました。 注6:当時、会社ではまだメールを仕事で使うことはありませんでした。私の会社でメールを使うようになったのは1997年頃からでした。 注7:Nifty ServeはアメリカのCompuserveと提携していて、Compuserveのネットワーク(CIS)経由でNifty Serveにつなぐことができました。 注8:日本でのKDD・VENUS-Pや富士通・FENICSなどに相当する中国のパケット交換網。ちなみに、Nifty ServeはFENICSを窓口にしていました。 注9:ホテルというよりは“賓館”。昔ながらの2〜3階建ての建物で、部屋は広いがホテルと呼べるような設備はなく、ダイレクトダイヤルでの国際電話はまず無理。国内長距離電話すらダイレクトダイヤルできないところもありました。 注10:場所にもよりますが、中国からのFAX送信は途中で中断されることも多く、大都市のホテルから日本へ送信した場合、A4用紙1枚で数百円以上しました。 注11:中国の郵電局へ申込んでIDとPASSWORDをもらいます。ただし、通信に使用するモデムは中国郵電局認証済みのものを使わねばならないため、モデムを預けて認証を受けるか、郵電局からモデム(ヘイズ・アキュラ外付け)を買うか、しなければなりませんでした。(当時、RMB\2,000位=J\24,000位) また、契約時には担保としてRMB\2,000が必要でした。通信料金はRMB\1.30/分+0.12/バイト、アクセスポイントは中国全土にありました。 注12:当時、中国の電話の配線工事はいいかげんで、壁に埋め込んである線と電話機からの線をより合わせてテープで止めてあるような結線のしかたが主流でした。 注13:モジュラージャックから出ている線の端にワニグチクリップを取り付けたもの。壁の中から引き出した、剥き出しの電話線をこれでつまみ、モジュラーケーブルにつなげるようにしました。 注14:多機能電話の場合、電話線と電話機は4本の線でつながっていて(通常の電話は一番内側の2線のみを使用)、通話をするための信号線と機能のための信号線の配置が内外逆になっている場合がありました。それを反転させるためのアダプター。通常のモジュラーケーブル同士をつなぐ中継アダプターを分解し、配線を内外逆にしただけでした。 注15:公用電話機を使うためには、電話機の置いてあるカウンターのそばに座っている女性に申し込み、通話時間を時計で計ってもらい、その使用時間に応じて通話料金を請求される仕組みになっていました。当時の中国には、ごく小額の硬貨を除いて、硬貨は発行されておらず、コイン式の公衆電話もカード式の公衆電話もありませんでした。また、国際線ターミナルの、利用者が限られた公用電話以外では国際電話はできませんでした。 |