| 私の旅先通信(3) Macで始まった私の旅先通信 |
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| 文と写真●はるにいちゃん | ||||||||||||||
◆脳裏に焼き付いたAOLのスターターキット 私の仕事はプラントの立ち上げです。国内景気の影響もあって、この10年間は海外での仕事ばかりでした。 1991年の終わり頃、台湾に1年間ほど滞在したことがありました。この時、会社が用意してくれたMacintosh Classic 2台とHPのプリンターを現地事務所へ持ち込み、日本の職場に設置したMacintosh LCへリモートアクセスでつないで、FileMakerで作った検査票を日本の所属部署と台湾の現地事務所の間で共有していました。当時はモデムを使った電話回線経由でのファイル共有などはほとんど行われておらず、会社としてもかなり実験的な試みだったと思います。
翌'92年の夏、台湾から日本に帰国して3ヵ月後、今度はアメリカへ向かいました。アメリカでは、台湾で慣れ親しんだMacが欲しくなり、ウェストバージニアにいたのに、通販でカリフォルニアからPowerBook 100を購入しました。これが自分で初めて買ったPCでした。もう手元にはありませんが、GUIを採用しトラックボールを備えたPowerBook 100は、サイズ、外観ともに、今、考えても名機だったと思います。あのSONYが製造していたことも有名でした。(当時のWindows 3.0は、MacのGUIに慣れた自分には扱いにくそうな出来でした)。
しかし、当時は通信の「つ」の字もしませんでした。おそらく、当時は現在のようにホームページをブラウジングして日本の情報を得るとか、会社や友人と電子メールを交わすという発想もなかったですし、環境が整っていなかったのも一因だと思います。とはいえ、PowerBook 100のパッケージに入っていたAOLのFD付きスターターキットは、今でも脳裏に焼き付いていて、どーしてあの時、もう少し突っ込んでトライしてみなかったのかなって思っています。まぁ、突っ込んでいたら突っ込んでいたで、ドつぼにハマっていたのかもしれませんが……。 ◆PowerBook 520でniftyにつなぐ アメリカから戻った後、'95年の春先にPowerBook 520を購入しました。PowerBook 520にしたのは、アパート住まいでスペース的にノートタイプしか選べなかったのと懐具合との兼ね合いからでした。この頃になるとnifty serveの存在も知り、通信で何ができるのかといった知識も聞きかじり、私の通信生活が始まりました。
まずは外付けのモデムを購入し、自宅でniftyにつなぐ日々が始まりました。勿論、電話代と戦いながら(笑)です。当初は2万〜3万という請求書が来てビックリしたものです。その後は通信料金を抑えるため、巡回ソフトを使い出しました。 ところで、恐ろしいことに、このマシンにはPCカードスロットが装備されておらず、オプションになっていました。個々のパーツがモジュール化されて販売されていたのです。のちに大阪の日本橋で中古のPCカードスロットを買い求め、PCカード型のモデムを使い始めたことを覚えています。3Com社製のモデムで、Xjackという、カードの側面を押すと飛び出すジャックを備えていました。そんな少年心(?)をとてもくすぐる機構は別としても、延長ケーブルを持ち歩く必要もなかったので、持ち運びに便利でした。 ◆日本の情報が欲しい! 夏過ぎにこれらの機材を持って、再び台湾へ向かいました。当時、会社では課長以上しかメールアドレスをもらえなかったので、仕事でメールは使えませんでした。結局、モデムを使ってホテルの部屋からFAXを会社へ送っていました。メールの代わりにFAXを使うというのも、当時の私にとっては旅先通信の1つでした。 このときの台湾滞在は2ヶ月ほどで終わり、'95年の11月にはトルコへと旅立ちました。当時、日本の情報を手に入れる方法としては、1週間遅れでOCS (Oversea Courier Service:海外新聞普及株式会社) から送られてくる新聞とラジオ日本の短波放送だけでした。仕方がないので、毎晩、窓際にラジオを置いて聞き入っていました。 ある日、「あ、日本からの情報ならniftyにつなげばいいんじゃん!」と思いつき、以来、事務所で時間ができるとダイヤルアップしてました。しかし、当時はメールを送る相手もいませんでしたし、一緒に来ていた同僚も「パソコンに電話線つないで一体何やってるの?」ってな時代でした。当時のトルコの回線品質も劣悪で、ダイヤルしてつながったと思ったら切れるの繰り返しだったので、つながっていても、いつ切れるかいつ切れるかとヒヤヒヤでした。 そういえば、トルコの人たちはこの頃から携帯電話を持っていました。たぶん、今の中国などと同じで、固定電話回線を自宅に引くより携帯のほうが手っ取り早く電話が利用できるからなのでしょう。翌年の夏、一時帰国した際、私もはじめて自分の携帯電話を買いました。キャリアはDoCoMo、購入したのはパナソニックのP201でした。DoCoMoを選んだのは、地方での通話エリアが圧倒的に広かったからです。 結果的に、トルコには1年ほど滞在しました。 ◆駆け足で過ぎた台湾時代 その後、'98年の終わりから'00年の終わりまで、約2年間、台湾に滞在しました。この期間は、まさに自分のドッグイヤーでした(笑)。渡航2日前に初めてWindows PCを購入し、現地に持って行ったものの、Macの感覚でOS関連のファイルをフォルダの間で移動させていたら (今はわかりませんが、当時は結構平気でした)、OSがズタズタになってしまい、PCが立ち上がらなくなってしまいました。結局、niftyの会議室で対処方法を教えてもらって解決することができましたが、今となってはこれも懐かしい思い出のひとつです。 ちょっと話は逸れてしまいますが、この頃はダイヤルアップでしたので、台湾に限らず日本国内でも回線品質が悪いと直ぐに切れてしまい、切れてはつなぎ、切れてはつなぎの連続だったと記憶しています。 そうそう! 日本での話に戻りますが、駅前や駅構内のグレ電なんかで接続してしていると、後ろに並んでいる人たちに迷惑がられて、冷や汗たらたら流して通信してた頃もありましたね。パソコンで何やってる分からない人たちが殆どでしたから。 その後はPHSでの定額接続、公衆無線LANなどあっという間にインフラが整い、4〜5年で夢のような環境に発展したと思います。そういえばISDNなんてのもありました(爆)。 だけど自宅にISDNを導入して、初めて使ったときは、接続までの速さにビックリして「デジタルってスゴっ!」って思いました。そういえばグレ電の通信ポートはISDNとアナログの2つが装備されていましたが、アナログばかり使っていました。 え〜、戻ります。^^; 当初は台湾からローミングでniftyに接続していましたが、台湾Biglobeへ加入、次に現地資本のプロバイダ(SEEDnet)へも加入。
そして、初めてのGSM機購入と突っ走りました。自分の初号機はNOKIA5110でした。あらためてNokiaのサイト (http://europe.nokia.com/nokia/0,8764,123,00.html) でチェックしてみたら、170gもあったんですね。確かにパンツの後ろポケットに入れておくと邪魔で仕方なかったほどで、ごつくて重かったです。これは今でも所持しています。 その後、ホームページを立ち上げたあとは、たくさんの人々との出会いがあり、とても充実した日々でした。台湾の食べ物、飲み物にもすっかり抵抗がなくなり、日本料理屋さんからはすっかり足が遠のき、夕食のほとんどは屋台でとり、香菜も大好物になり、自分の変化をヒシヒシと感じていました。時にはオフ会のためだけに日本へ帰国してみたり(笑)……。仕事していたのかしら? ^^;)
この時の台湾滞在で、すぅさん、ピキピキさんと出会いました。ピキピキさんも「ケニアから愛をこめて」で書かれていましたが、とても懐かしいです。「美味しいものを食べて、飲んで唄って踊って通信して……」でしたっけ?(^^)。あまり素面の時がなかったのでうろ覚えですが、日式スナックでチャンドラーを起動してエリクソンGSM携帯+通信カードで日本へ状況報告したのか、されたのか……。いや、食堂からだったかしら(笑)。微かな記憶を辿ってみると、どちらの場所からも通信・報告されていたというのが正解でした。ねぇ、すぅさん? なんだかんだと、これ以降はそのときの勢いのまま、PCもPDAもGSMも、増えに増えて突っ走っております。
こんなんでも、仕事は一応真面目にやってます。たぶん、……。 |